原文
宰我使于齊而反,見夫子,曰:「梁丘據遇虺毒,三旬而後瘳。朝齊君,會大夫,眾賓而慶焉。弟子與在賓列。大夫眾賓並復獻攻療之方。弟子謂之曰:『夫所以獻方,將為病也。今梁丘子已瘳矣,而諸夫子乃復獻方,方將安施?意欲梁丘大夫復有虺害當用之乎?』眾坐默然無辭。弟子此言何如?」夫子曰:「汝說非也。夫三折肱為良醫。梁丘子遇虺毒而獲瘳,諸有與之同疾者必問所以已之之方焉。眾人為此故,各言其方,欲售之以已人之疾也。凡言其方者,稱其良也。且以參據所以已之之方優劣耳。」
書き下し
宰我齊于使いし而反り、夫子に見えて曰く、「梁丘據虺の毒に遇い、三旬にし而後瘳ゆ。齊君に朝で、大夫に會えば、賓眾り而慶ぎ焉り。弟子與に賓の列に在り。大夫眾る賓並びに復た攻療之方を獻る。弟子之に謂いて曰く『夫れ獻る方を以いる所は、將に病まんがめ也。今梁丘子已に瘳え矣り、し而諸夫子乃ち復た方を獻る、方に將に安か施さん。意梁丘大夫の復た虺の害有りて當に之を用ゆべきを欲めん乎』と。眾坐して默然として辭無かりき。弟子の此の言何如」と。夫子曰く、「汝の說くは非き也。夫れ三たび肱を折りて良き醫と為る。梁丘子虺の毒に遇い而瘳ゆるを獲てるも、之與同じき疾む者諸れ有りて、必ず以て之を已*やす所之方を問わ焉。眾人此が為め故に、各の其の方を言う。之れ以て人之疾いを已やすを售らんと欲する也。凡そ其の方を言う者は、其れ良しと稱うる也。且つ參も以て之を已す所之方に據るを以て優劣ある耳」と。
訳注
*已:傅本により「癒」と読む。
現代語訳
宰我が斉に使いに出て戻り、先生のお目にかかって言った。
「梁丘據さまが毒蛇に噛まれまして、三十日ほど寝込んだ後に回復しました。そこで斉国公にご挨拶なされ、ご家老衆ともお会いになりましたが、みなさま駆けよって、お祝いを申されました。私もその席にいたのですが、お集まりの皆様、どの方もヘビ毒の治し方を梁丘さまに申されました。それで私はお歴々に申し上げました。
”皆様お話の療治法は、病の最中にこそ意味のあるものでしょう。いま梁丘さまはご回復なされたのに、皆様方は療治法を仰せになる。一体何の役に立つのです? 梁丘さまに、もう一度毒蛇に噛まれろとでも?”
皆様方は声を失って、黙って仕舞われました。私の申し上げた話をどう思われますか?」
孔子「お前の話は良くない。名医も、三度患者の腕を折ってようやくなれると言う。梁丘どのは噛まれて治ったが、今後同じ目に遭う者は必ず出るし、必ず療治法を求めるだろう。だから皆様方は、療治法を申されたのだ。それは人の病を癒したいからだろう。療治法を人に言う者は、それだけで善人と言って良い。ただその療治法を使って、方法の優劣が決まるだけだ。」
解説・付記
宰我は論語では、孔子に叱られてばかりの話が並ぶが、それらの話はおおむね後世の捏造で、おそらくは漢帝国儒者の捏造キャンペーンの一環である。その対極が顔回で、歯の浮くようなお世辞が論語に並んでいるが、それらもまた漢代の捏造だ。
宰我は生前に何をやったか、まるで記されておらず、いわゆる孔門十哲に数えられながら、謎の人物と化している。『左伝』にある斉の内乱によって世を去った人物とは、たまたまあざ名が同じの別人だろうが、何となく斉の風味がある人物として後世受け取られた可能性がある。
また『大載礼記』に、「黄帝は三百年も生きたなんて、そりゃ人ですか?」と問う合理主義者として描かれ、孟子や帝国儒者のでっち上げた伝説を否定してかかる不埒な人物とされた。論語の時代に黄帝は発明されておらずでっち上げだが、こういうことを言いそうではある。
黄帝は『論語』『墨子』『孟子』に見えず、『荘子』『公孫竜子』『孫武兵法』にあるがいつの作やら不明、『韓非子』と『呂氏春秋』にあるからには戦国末までには発明されただろう。おそらく発明者は『列子』の編者で、黄帝篇を設け『黄帝之書』を取りあげている。
宰我のような孔門の何をしたのか分からない弟子は、孔門の行った活動の中で、儒者に都合の悪い部分を担ったと考えてよく、つまり宰我は孔門諜報部の一員と考えると説明が付く。孔子が後ろ暗い政治工作を行ったことは、孔子とすれ違うように生きた墨子が証言している。
そして何もしない弟子が、大国の国王を恐れさせるわけがない。
宰我は恐らく、各地で同時進行した孔門の秘密工作の目付役で、それゆえ表だってその仕事を言う者は無く、あってもその記録を後世の儒者が、徹底的に消したのだろう。そのどちかかといえば、訳者は前者だと考える。悪口のネタを、儒者が見逃すはずが無いからだ。
後世の儒者にとって、孔子と顔回が御本尊として貴ければそれでよく、二人を高めるためなら、宰我や子貢のおとしめ伝説を平気ででっち上げた。宰我が悪事を働いたなら利用しないはずが無く、そうしたしっぽを出さない程度には、宰我は有能な諜報員だったことになる。