『孔叢子』嘉言第一001:夫子適周

原文

夫子適周,見萇弘,言終,退。萇弘語劉文公,曰:「吾觀孔仲尼有聖人之表。河目而隆顙,黃帝之形貌也。脩肱而龜背,長九尺有六寸,成湯之容體也。然言稱先王,躬履廉讓,洽聞強記,博物不窮,抑亦聖人之興者乎?」劉子曰:「方今周室衰微而諸侯力爭,孔丘布衣,聖將安施?」萇弘曰:「堯舜文武之道、或弛而墜,禮樂崩喪,其亦正其統紀而已矣。」既而夫子聞之,曰:「吾豈敢哉!亦好禮樂者也。」

書き下し

夫子周に適き、萇弘に見ゆ。言終えて退く。萇弘劉文公に語りて曰く、「吾孔仲尼を觀るに、聖人之表有り。河目にし而ひたい隆く、黃帝之形貌也。かいなながくし而龜背,長九尺有六寸,成湯之容體也。然るに言は先王を稱え、躬らかどいやを履み、あまねく聞きておぼゆること強く、物に博くして窮まら不、抑も亦た聖人之興れる者乎」と。劉子曰く、「方に今周室衰え微え而、諸侯力めて爭う。孔丘は布衣なれば、聖將た安にか施ばんや」と。萇弘曰く、「堯舜文武之道、或いは弛み而墜ち、禮樂崩れ喪わる。其れ亦いに正に其の紀を統める而已矣ん」と。既にし而夫子之を聞きて曰く、「吾豈に敢てせん哉。亦いに禮樂を好む者也」と。

訳注

萇弘:周の敬王の太史。孔子に音楽を教えたという。

劉文公:劉国の国公。周王室の内紛に乗じて勢力を強めた。

仲尼:孔子のあざ名。敬称で呼んだことになる。

河目:目が甚だしく凹み、上下のまぶたが平らかなさま。聖賢の相貌。

龜背:背の曲がる病。せむし。背骨の曲がった人。佝僂(クル)。

九尺有六寸:一尺は十寸。▽周代の一尺は、大尺で二二・五センチメートル。小尺(咫(シ))で一八センチメートル。

布衣:庶民。

現代語訳

先生が周の都洛邑に行き、萇弘と会った。会談が終わってその場を去った。萇弘は劉文公に語っ言った。

「私が孔仲尼どのを見た感想ですが、聖人の外見を具えています。金壺眼に額が出っ張っているのは、黄帝の顔つきです。腕が長く背が曲がりながら、九尺六寸の背丈があるのは、湯王の外見です。それなのにいにしえの聖王をたたえ、振る舞いにかど目があって自己主張せず、幅広い耳学問がありそれらのことごとくを記憶し、物事に通じて知識が果てない。いったい彼は、聖人が復活したのでしょうか。」

劉子「今まさに、周王室は衰えて、諸侯はあらん限りの力で争っています。そんな時代の中で、孔子は庶民に過ぎません。万能があろうとも、使い道は無いでしょう。」

萇弘「堯・舜・文・武王の定めた法は、あるいは弛んで意味を失い、礼法も音楽も乱れて失われています。だから孔子は、そうした法や礼楽を、今一度整理してまとめるのでしょうな。」

この話を聞いた先生は言った。「私にそんなことが出来るわけもない。ただし、とびきり礼楽が好きなだけだ。」

解説・付記

孔子の洛邑留学は、魯国門閥家老家の一家・孟孫家の後押しにより、魯国公の後援と孟孫家当主の弟・南宮括の同行によって実現した。だが萇弘との会見については、信頼に足る史料に見えない。

また古代の聖王のうち、孔子生前に名が知られていたのは、周王朝の開祖である文王と、事実上の初代である武王に限られた。孔子没後に墨子が禹王を提唱して儒家への圧倒を試み、それ以降儒家・墨家・道家などが三つ巴で、勝手により古い聖王をでっち上げた。堯舜は無論そうした産物で、漢字の文字史的にも春秋時代には遡れない。

第一、目視で身長九尺六寸がわかるなど、列車の運転士か戦車の砲手なみだ。そんなことがあるわけがない。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。覚悟致せ。

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